取りあえず、かつお節と昆布で出汁を取り、さつま揚げとワカメと玉子のうどんを食べる。薄味のうどんにさつま揚げの油がしみ出しておいしい。基本的に関西人の食べ物だよね。
午後5時くらいになってから買い物。商都松本の屋台骨(?)である井上様で衣料品を数点購入し、知新堂では注文しておいた食器を受け取る。
その後、異動する同僚への餞別をパルコで探す。最上階のヴィレッジヴァンガードでパーティーグッズみたいなものを選ぼうかなあと思ったが、松本城のプラモデルとか、お風呂で使うプラネタリウムとか、興味を引いたのはそんなところ。また明日考えよう。
中町通りのイタリアンダイニング「クアトロ・ガッツ」で夕食。狭い店なのは承知で入ったが、空席があるのに隅っこに通されてちょっとムッとする。背後の女性客の声が大きいのにもイライラ。メニューを吟味する気が起こらず、何も見ずにコースをオーダーした。出されたのは、人参とクレソンのポタージュやチキンのグリルなど。それぞれレベルはそれなりに高いが、今食べたいものとは合わず。うまく行かないときはこんなものだ。
相方が2、3日前から「カラオケに行きたい」と主張していたので、帰りにシダックスへ。でも今一つテンション上がらず。だいぶ髪が伸びているので、カート・コバーンのつもりで(嘘です)「Smells like teen spirit」を歌うが全然のれなかった。破れかぶれで「唐揚げプレート」を食べたら、さすがにジャンク。基本的にジャンク好きだが、今日ばかりは「クアトロ・ガッツのチキンはおいしかったんだな」と自己嫌悪しただけだった。
帰宅してから、部屋に転がっていた「食堂かたつむり」を一時間くらいで読んだ。手ひどい失恋のショックで失語症に陥った25歳の女性が、故郷で食堂を開き、お客と食材と自分の心に真摯に向き合う中で自己回復を果たしていく。
北欧だかで食堂を開くという「かもめ食堂」に似たタイトルだ。内容的には、特に前半は吉本ばななの「キッチン」に雰囲気が似ている。著者は音楽関係のいわゆる「業界人」のようで、それと関係するのか、どうも商業的イメージが拭いがたい作品。しかし、レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」がいうように、食物が人の心に温かな癒やしを与える描写は好きだ。満足できる水準の月9ドラマみたいな感じというか、イライラした感情がなくなった。
ちなみに、読売新聞の日曜書評で精神科医の春日武彦氏は、「終盤に至って、相当に驚かされるエピソードが出現する。そのことで本書は、『癒やされるけれど凡庸』な小説から一線を画すことになった」と書いている。けれど、それはちょっと違う。終盤のエピソードが変わっているのは確かだが、「癒やされるけれど凡庸」な小説の終盤が珍しい展開になっているだけだと思うね。
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